Trendly

インフルエンサーに関するエンタメ情報を発信

【75年前の今日(9月1日)。私が 終戦 を知った日…。與田治郎右衛門(95歳)】 ・ 今年は「終戦」から75年となる節目の年です。 ・ 私が終戦を知ったのは、一般に「終戦の日」と言われる 8月15日から、半月が経過した「昭和20年 9月1日」頃のことでした。 ・ ━━━━━━━━━━━━━ ・ 私は 大正14年(1925年)11月、兵庫県城崎郡竹野村(現:豊岡市)に生まれました。 昭和17年12月、高等学校を戦時体制により繰り上げ卒業した後、海を渡り「大日本帝国上海大使館」司政部行政科に就職。 昭和20年2月、大使館を退職し、徴兵検査を受け甲種合格。 「大日本帝国陸軍満州独立工兵隊」1893部隊に 経理幹部候補生 として現役入隊しました。 ・ 終戦直前になりソ連軍が満州へ侵攻。私の所属部隊もソ連軍戦車と命をかけた戦闘を行う。その際、隊員達に支給されたのは三八式歩兵銃の実弾5発、自決用の手榴弾1発と、酒一升。戦車と戦うにはあまりにも火力不足であった。圧倒的火力差の中、工事用の爆薬を使った肉薄攻撃(特攻)作戦を命じられる。私の塹壕の近くに戦車は向かって来なかったが、戦友たちが突撃。しかし戦車は何事も無かったかのように土煙の中から出てきた。もし私の方へ戦車が向かって来ていたら当然、私も突撃していた。死ぬのは明白であるのに当時、恐怖心は無かった。 この光景は95歳となった今なお脳裏に鮮明に焼きついている。 ・ その後、雨風凌げぬ密林で20日間のサバイバル生活を送る。主な食料はカタツムリであった。 終戦の日、昭和20年8月15日、私は戦友たちと密林の中にいました。 当然、終戦という事実は、密林にいる私たちの耳には入って来ませんでした。常に緊張状態の中にいました。 そんな頃、密林の中で部隊はソ連軍に包囲され機銃掃射を受ける。戦友たちが銃弾に倒れ、30人いた隊員のうち7人しか生き残らなかった。難を逃れた私は、負傷した古年兵と三八式歩兵銃2挺をかつぎ密林の中を進んだ。 ・ 9月1日、密林を抜け出ると、そこには武器を持っていない友軍の姿が。 その時、私は初めて「終戦」を知り、それまで肌身離さず身につけていた三八式歩兵銃をおいた。 その後、ソ連軍に捕まり、日本軍捕虜として2年間、極寒の地・シベリアで強制労働(シベリア抑留)を強いられました。 ・ ・ 「與田治郎右衛門(95歳)のシベリア抑留体験談」 ・ 【祖父のシベリア抑留記、孫とともに未来へ/サンテレビ『4時!キャッチ』(O.A. 2019.8/13) &『ニュースSUNデー』(O.A. 2019.8/18)】 📺 https://youtu.be/L9TAgYrQuFA ・ 【シベリアの思い出いっぱい、シラカバのトランプ見つかる「産経新聞」(但丹ニュース・1976年1月19日)】 ・ ・ 2度とあのような戦争は起こってほしくありません。これからも戦争体験の語り部活動を無理のない程度に続けていきたいです。 ・ ・ 令和2年(2020年) 9月1日 ・ 元 大日本帝国陸軍満州独立工兵隊幹部候補生 元 大日本帝国上海大使館員 元 シベリア抑留者 ㈱元庄屋企業グループ 会長 ・ 與田治郎右衛門(襲名前:純次) 95歳 ・ #戦争 #平和 #終戦記念日 #終戦の日 #war #peace #history #第二次世界大戦 #大日本帝国 #陸軍 #軍人 #大使館 #就職 #仕事 #海外 #日本史 #歴史 #白樺 #トランプ #戦友 #占い #昭和 #大正 #シベリア #抑留 #労働 #極寒 #取材 #モノクロ #写真

yodajirouemon

42

0

與田治郎右衛門純次(大正生まれ"95歳"の現役経営者)の最新のInstagram

Instagramフォロワー数ランキング

渡辺直美

953.9万

Tasty Japan

680.3万

i_am_kiko

593.9万

Nissan

586.5万

Gymshark

538.8万

The North Face

486.4万

佐々木希

442.5万

山﨑賢人

433.4万

Honda

431.2万

もっと見る

Copyright© Trendly , 2022 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.